私は歴史に興味がない。そして建造物にも興味がない。そんな私がお寺に興味が持てないのは必然だ。
京都生まれ京都育ちで、あまりに身近過ぎるせいもあるかもしれない。通学路の道沿いにも何かしらの寺があるし、態々、観光でお寺に行く人の気持ちが理解できないのだ。

この前、散歩中にお寺があったので好奇心で入ってみたのだが、階段を登り終わった先で放心してしまった。
「ここで何をしたらいいんだろう」
「周りの人は何を目的にここに来ているんだろう」
まるで周囲の観光客は宇宙人で、異星の文化を見てギョッとしたような心持ちになる。
そのまま拝むこともないまま、そそくさと退散してしまった。
理解出来ないからといって、”ダメなもの”というわけではない。この世にこんなにあるのだから、分からないけど悪いものではないのだろう。
“理解出来ない=ダメ”という等号にせず、理解出来ないものは、ただ理解出来ないものとして、そのままの意味で捉えて、引き出しにしまっておくことが、大切だと思う。
とかく人は分からないものに対して嫌悪を抱きがちだ。しかし、そもそも世界の全てを自分一人で理解出来るなんて思うことが間違っている。理解出来ないものはどんなに頑張っても理解出来ないのだ、と理解することが、他の物と比較した時の理解度を上げてくれるものだと私は思う。
安井
