教育の、その先にあるもの
先日、あるブログを読んでいて、面白い言葉に出会いました。
「自分がされて嫌なことを、人にするな」
これが幼児教育。
「自分がされて嫌じゃないことでも、人にとってはそうとは限らない」
これが初等教育。
「嫌か嫌じゃないかは置いておいて、世の中にはルールがある」
これが中等教育。
「でも、そのルールがいつも正しいとは限らない」
これが高等教育。
なるほどなあ、と思いました。
自分の気持ちから始まって、相手の気持ちを知り、社会のルールを知り、最後にはそのルールさえ疑う。
人間の成長を、とてもうまく表している気がします。
ただ、そのブログには、そこまでしか書かれていませんでした。
では、高等教育のその先には、何があるのだろう。
少し考えてみました。
ルールが正しいとは限らない。
正義も、人によって違う。
一生懸命やっても報われないことがあるし、理不尽なことも、納得できないこともある。
そこまで分かってしまったあと、人はどう生きればいいのか。
私なりに考えた答えは、
「もう、矛盾したまま生きるしかない」
ということでした。
世の中のすべてに答えを出そうとすると、しんどくなります。
あの人が正しい。
いや、こちらが正しい。
このルールは間違っている。
社会はこうあるべきだ。
もちろん、考えることは大切です。
でも、どれだけ考えても、きれいに答えが出ないこともあります。
そんなときは、
「まあ、人生にはこんなこともあるか」
と、少し笑ってみる。
理不尽も、失敗も、恥ずかしいことも、腹の立つことも、全部ひっくるめて人生です。
少し乱暴に言えば、人生なんて壮大な暇つぶしなのかもしれません。
どうせ、すべては過ぎ去っていきます。
今、絶対に許せないと思っていることも。
失ったら生きていけないと思っているものも。
うれしいことも、悲しいことも。
全部、ずっと同じ形では残りません。
だからこそ、目の前にある一日を、なるべく味わって生きる。
うまくいく日も、泥だらけになる日も、
「今日はこんな日だったな」
と引き受けていく。
それが、高等教育のその先にある「魂の教育」なのではないかと思いました。
ただ、ここで少し厄介なことがあります。
人は結局、自分が今立っている場所からしか、物事を見ることができません。
ルールを守ることで精いっぱいの人に、
「そのルール、本当に正しいですか」
と言っても、なかなか届きません。
正しさを信じて必死に生きている人に、
「人生なんて遊びですよ」
と言ったところで、
「何を無責任なことを言っているんだ」
と思われるでしょう。
それは仕方のないことです。
自分自身もそうだったと思います。
若い頃に誰かから言われた言葉が、そのときは全然分からなかった。
むしろ、
「そんなもの分かるか」
と反発したこともあります。
自分のやり方を通して、失敗して、恥をかいて、ずいぶん遠回りもしました。
でも何年か経って、ある日ふと、
「ああ、あのとき言われたのは、こういうことだったのか」
と分かる瞬間があります。
頭で理解するというより、身体の奥にストンと落ちるような感覚です。
たぶん、人は言葉だけでは変われません。
自分でやってみて、転んで、痛い目にあって、ようやく分かることがあります。
だから、今すぐ分からなくてもいい。
人の言うことを素直に聞けなくてもいい。
自分のやり方を貫いて、大失敗してもいい。
その遠回りが、いつか必要な経験に変わることがあります。
バラバラだった出来事が、ある日突然つながる。
それまで見えなかった景色が、一気に開ける。
あの瞬間は、なかなか気持ちのいいものです。
すぐに正解へたどり着かなくても大丈夫。
格好悪くても、泥まみれでもいい。
どうせ、すべては過ぎ去っていきます。
だったら、失敗も遠回りも含めて、人生を少し面白がりながら生きていけたらいいなと思います。
