
消えた鳥居のマークから考える
最近、道路脇の壁や電柱に描かれた「鳥居のマーク」を、あまり見かけなくなった。
若い世代の中には、そもそも何のために描かれていたのか、知らない人もいるかもしれない。
あの鳥居は、神社の場所を案内するためのものではない。多くの場合、立ち小便や犬の放尿、場所によってはゴミの不法投棄を防ぐために描かれていたものだ。
鳥居は、本来、神社の内と外を分ける境界であり、その内側が神聖な場所であることを示す。神社本庁も、鳥居を「神社の内なる世界と外とを分ける存在」と説明している。
そのため、日本人には昔から、
「鳥居に向かって粗相をすれば、バチが当たる」
という感覚があった。
法律や罰金を細かく説明するのではなく、人々の心の中にある畏れを利用して、迷惑行為を思いとどまらせる。鳥居の絵や小さな鳥居が、立ち小便やゴミ捨てを防ぐ目的で使われてきたことは、名古屋国際センターの案内でも紹介されている。
ある意味、非常に日本的な注意表示だった。
では、なぜ最近は見かけなくなったのだろう。
「日本人のマナーが向上し、わざわざ鳥居を描かなくてもよくなったから」
というのは、一つの有力な見方だと思う。
もちろん、それだけが理由とは限らない。コンビニや公共施設などのトイレが増えたこと、道路や路地が整備されたこと、防犯カメラや照明が普及したことなど、街そのものの変化も大きいだろう。
立ち小便禁止の鳥居について扱った記事では、トイレの増加や街の整備、都市生活のルールの浸透などが、看板が減った理由として挙げられている。昭和の終わりにはすでに、消えつつある習俗と考えられていたという。
つまり、鳥居のマークが消えたのは、単に絵が古くなったからではない。
その注意を必要としていた社会の状況が、少しずつ変わったからなのかもしれない。
ここで考えてみたいのが、街に書かれている標語である。
「差別をなくそう」
「いじめをなくそう」
「ポイ捨て禁止」
「迷惑駐車はやめましょう」
なぜ、その言葉が掲げられているのか。
そこに、放っておけば起きる問題があるからだ。
もちろん、「差別をなくそう」という標語があるからといって、社会の全員が差別をしているという意味ではない。しかし少なくとも、その問題が存在し、注意を促す必要があると誰かが判断していることは分かる。
標語や禁止看板は、社会の理想を示すと同時に、その社会が抱えている問題も映し出している。
反対に、看板が消えたからといって、問題が完全になくなったとも限らない。問題が減った場合もあれば、別の方法で注意するようになった場合もある。鳥居よりも「防犯カメラ作動中」や「誰かが見ている」という表示のほうが、現代人には効くようになった可能性もある。
街角の表示を注意して見ると、その時代の人々が何に困り、何を恐れ、どのような社会を目指していたのかが見えてくる。
かつて道路脇に描かれていた小さな鳥居は、単なる落書きではなかった。
それは、法律よりも「バチが当たる」という感覚が人を動かしていた時代の名残であり、同時に、当時そこに現実の迷惑行為があったことを伝える、街の化石でもある。
今、私たちの周りには、どのような標語が多く掲げられているだろう。
その言葉を逆から読めば、現代社会が抱えている問題の姿が、少し見えてくるのかもしれない。
