
理解するということは何だろう。
ただ教科書の暗唱だけしている教師がなにも教えていないのと同じように、ただ事実を羅列する行為は理解とは程遠い。
教科書というのはとても端的に書かれたもので、短い事実だけあり、要素が濃く、粒子が大きい。それをしっかり噛み砕いて赤子でも消化できるようにするのが、解説書だったり教師だったりの役割だ。
自分で勉強する時もそうで、その時は自分で消化、つまり分解していく作業が必要になる。
そうでないと覚えた等号以上のことが分からない、とてもエントロピーが低い情報になってしまう。
機械を分解してみるように、一つ一つ外装を剥がしていって、ネジの1本にまでしてみる。
こんなものによって作られてたんだ、という解像度が上がる。これが大事なことだと思う。
しかし、ここで難しいのが分解だけしていればいい、というわけではない点。
人間の構成要素の最小単位が素粒子だからといって、素粒子だけ見つめていても人間の全てが見えるわけではない。
なんでも因数分解すればいいってものじゃないのだ。
「画竜点睛を欠く」の故事のように、最後の目を入れた時、竜は飛び立つ。分解、再構築、そしてその魂がどこにあるか。それを分かった時が初めて”理解した”
時なんだと私は思っています。
安井
