母方の祖父が亡くなった。突然の訃報だった。持病が悪化した、というような訳ではなく、自宅で急に事切れたらしい。そのような場合には警察の検視が必ず入るということを初めて知った。
仕事の休みをもらい、参加の旨を連絡する。葬儀に出るのは10年ぶりぐらいだろうか。父方の祖父が亡くなった時に買って以来着ていなかった礼服を引っ張り出し、なんとか着れたことに安堵した。情けないことだが、今の自分には礼服を買い直す手持ちもない。
年始の挨拶などもご無沙汰だったので、親戚と会うのも久しぶりだ。皆一様に時の流れを感じる。相手からしてもそう見えるだろう。成長して見えるのか、まだまだ子供だ、と思われているのかは推し測れないが。
直に告別式が始まる。日蓮宗の若い細身の僧侶による、聞き慣れた南妙法蓮華経。あの大層な見栄えのする袈裟も、日々クリーニングに出したりしてるんだよな、などと裏の生活のことを想像しているとソロリサイタルが終わった。
そのまま花などを詰め、火葬場へ移動する。いつもながらのシームレスな流れだ。そのまま息つく暇も無く、火葬炉の前で読経を聞きながらの再度のお焼香、最後のお別れとなった。
炉入れを見送りながら、人間の最後ってこうなんだな、と思う。どんな人も死に、見送られ、丁重に扱われながら火にくべられ、骨になる。無縁仏にならない限り、この儀式に大きな差異はないだろう。人生の最後、炉の扉がしまった瞬間、ああ終わったんだな、という気持ちになる。この瞬間、故人は紛れもなくこの場の主人公になり、そして幕が下りたのだ。
葬式は亡くなった人の為にあるのではなく残された遺族の為にあるもの、という言葉がある。私は今まで、家族が気持ちの整理や区切りをつける為だけにある、と思っていた。
しかし、違うのかもしれない。これは、今までお世話になった方への、最後にできるせめてもの恩返しの形なのだ。
そう思うと葬儀というのもそれほど悪いものではないのかもしれない、と感じていた。
役目を終えた僧侶を見送り、待合室へ移動しようとした時、動線を間違えたのか、別の僧侶が扉を開け、気まずそうに横切っていった。担当してもらった方と似ても似つかない、大柄の柔和そうな人だった。
移動する道中、違う炉を使うであろう、棺を抱えた一団とすれ違う。待合室にも、同じように焼き上がりを待っている、礼服に身を包んだ無数の集団があった。
先ほどまで感じていた特別感はすでに無くなっていた。
安井
